「土用の丑の日」  「このところ、お玉と美味しい物を食べていないなぁ…」 と言って、出勤途中の藤次郎は自分の財布を覗き込んだ。  夏の賞与が入ったからと言って、その使い道(自動車のローンとか)がほぼ決まってい るので、藤次郎はこのところ、玉珠とのデートは予算が安くてすむ所にしか連れて行って いなかった。  世の中は好景気(この話はバブル絶頂期の頃)と言っても、エンジニアである藤次郎と 玉珠には、テレビのトレンディー・ドラマで流行っている華やかな生活やアフターファイ ブにはほど遠く、バブルの恩恵と言えば、今まで数人で使い回していたパソコンが一人一 台に配置されたことぐらいで、仕事の忙しさは逆に増えていたくらいである。  その時、会社の近所のコンビニで『土用の丑の日』の張り紙を見かけ、  「一丁奮発して鰻でも、食べに行くか…」 と思い立った。  そうと決まったら、藤次郎は会社の昼休みに玉珠と最近始めたパソコン通信で玉珠宛に  「今度のXX日は土用の丑の日だから、鰻を食べに行こう」 とメールを送った。  するとすぐさま  「行く行く!!\(^^)/」 と返事が帰ってきた。  「じゃ、いつもの所で待ち合わせしよう」 と返事をして、藤次郎はその日は嬉々として仕事をかたづけた。  玉珠と駅で待ち合わせをして、以前から敷居が高くていつも前を通り過ぎるだけだった 鰻料理の店の暖簾をくぐった。  「いらっしゃいませ」  店の仲居案内されるまま、二人は座敷席に通された。お品書きを見てその値段に仰天し たが、藤次郎は思い切って、  「鰻重の松を二人前。それから生中ふたつ!」 とうわずりそうな声を控えて注文を伝えた。  「はい」  仲居が下がるのを見計らって、玉珠は藤次郎に  「ちょっと!大丈夫なの?」 と不安げに言った。  「まっまぁ、年に一度のことだから…」 と虚勢を張って見せたが、藤次郎の頭の中では「この後飲み屋に連れて行くことが出来な いなぁ…」と気落ちしていた。  出された中ジョッキの生ビールで乾杯してから、藤次郎は気を取り直しておもむろに  「鰻は客の顔を観てから割くのが一番美味しいんだ」 と言うと、  「へぇーーー、誰の受け売り?」  最初から藤次郎の蘊蓄を疑って、玉珠は切り返した。  「池波正太郎」  藤次郎ははなからグルメを気取る気はなかったので、素直に言った。  「成る程」  ”池波正太郎”の名が出てきたので、玉珠は納得した。  「あの人の時代劇作品って、色々な江戸の食べ物が出てくるわね」  「そうだよね、”鬼平犯科帖”のドラマを見ていると、本当に美味しそうだよね」  「そうね」  嬉しそうに話す藤次郎に玉珠も嬉しそうに反応した。  やがてジョッキが空になる頃に、お待ちかねの鰻重の膳が運ばれてきた。本来なら、も っと時間が掛かる筈なのであるが、今日はかき入れ時と言うこともあり、店側もあらかじ め下ごしらえしていたようである。  藤次郎と玉珠はお重の蓋を開け、ホッコリと湯気の立つお重に下のご飯が見えないくら い敷き詰められた鰻の蒲焼きを見て  「おっ、うまそう」  「ほんと!」 と同時に言った。それを互いに微笑みながら、二人とも早速一箸つけ口に入れた、そして  「うーーん、やっぱり鰻は関東割きの関東焼きの方がいい!」 と、藤次郎が感慨深げに言うと、  「…関東割きって?」 と玉珠が山椒をかける手を止めて不思議そうに尋ねた。  「うん、関東と関西では鰻の割き方が違うんだ」  「そうなの?」  玉珠は首を傾げて返事をした。すると、藤次郎は得意げに  「関東地方では鰻は背開き、関西地方では腹開きなんだ」 と言った。  「なんで?」  玉珠が面白がって聞くので、藤次郎はますます得意になり、  「関東地方は武士の勢力が強いから、腹開きは”切腹”を想像するからだよ」  「なるほど」  頷く玉珠に藤次郎は話を続けた。  「…それに、関東では鰻は一度白焼きにして蒸してからタレを付けて焼くから鰻はふっ くらした焼き上がりになるんだ」  「関西地方では?」  「うん、白焼きにしてそのままタレをつけて焼くんだ。だから、歯ごたえがある」  「へぇーーー、知らなかった」  「そうだろ!」 と藤次郎が偉そうに言うと、  「じゃ、藤次郎は関西地方の焼き方の鰻を食べたことがあるんだ!」  ふと玉珠が切り返してきた。それに気付かず藤次郎は、  「うん!」 と嬉しそうに返事をすると、  「誰と?」 と急に妖しい目つきで尋問口調になった玉珠の視線に驚きながらも  「げっ、下宿の奴らと…」  さすがに「幸子と食べに行った」などと言おう物なら、玉珠の拳…はさすがに店ではな いだろうけど、その場でテーブルの下で足で蹴られるか、店を出た後で問いつめられて殴 られる事が藤次郎でも容易に想像できたので、そのことは口が裂けても言うまいと思った。  「ふーーーーーーん」  藤次郎の返事に玉珠は相変わらず疑っているようだった。  「さっさぁ、冷めないうちに食べよう!」 と、藤次郎はその場を取り繕うように食べ始めた。  「…そうね」  玉珠は不満そうだが、目の前の鰻重に対する食欲が勝り、気を取り直して食べ始めた。  「あーーー、おいしかったぁ…」  「そうだね」  勘定書きの値段を見て気落ちした藤次郎が虚ろげに返事をする。  「たまには、こんな美味しい物を食べるのもいいわね」  前を歩いていた玉珠が振り返って、藤次郎に言った。  「それって、嫌みかよ。それじゃぁ、いつもは美味しい物を食べに行っていないみたい じゃないか!」  図星を言われて多少カチンと来た藤次郎が少し強い口調で言うと、  「嫌み…かもしれないわね」  玉珠は空を見上げて人差し指を顎に当てるポーズで言った。  「そりゃないよなぁ…結構リサーチしているんだけど…」  いじけたように言い訳する藤次郎に  「でも、このところ安い所しか行かないじゃない!」 と、反論してきた玉珠に藤次郎はぐうの音も出ずに、  「おっしゃるとおりで…」  藤次郎は感服した。藤次郎の落胆ぶりを見て、  「これでも、女性誌のグルメ特集や会社の人達の情報を見聞きしているのよ」 と、玉珠は「おそれいったか!」とでも言いたそうな得意げな顔をした。でも、すぐに  「お互い、貧乏エンジニアだからしようがないわよね」 と藤次郎を労るように言った。そして、  「でも、今日は本当に美味しかったわ、誘ってくれてありがとう」  玉珠は満面の笑みで言った。それを見て藤次郎は報われた気分になった。  「この後、どうする?」  実はもう財布の中身がピンチになっているのであるが、あえて藤次郎は虚勢を張って聞 いた。  「そうね…美味しい物を食べたから、この後居酒屋に行って美味しくない物を食べても 仕方ないから、家に来て。二人で飲みましょう!」  「珍しいね、一件限りだなんて」 と藤次郎が内心ホッとしながらも、  「うん、たまにはね」 と言う玉珠の微笑みに  「こいつ、俺の財布を気にしてくれていたのか…なんか悪いことをしたなぁ…」  と恥じ入る藤次郎の申し訳なさそうな顔に気付いて、  「あら…そんな暢気な事考えていいの?」 と藤次郎の心境を見透かして、玉珠は藤次郎の腕を取ると、  「さて…さっきの関西流の鰻を誰と食べたのかをじっくり聞かせて貰うわよ!」  「おっ、おい!」 と言って、驚く藤次郎を引っ張って行った。 藤次郎正秀